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人のおかれた環境は平等ではないということ~脱平等神話のすすめ~

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子どものころ、私は人間の置かれた環境は生まれもって平等だと思っていました。みんな同じスタートラインに立って平等に努力し、その努力の度合いによって結果に違いが生まれると。

ただ、年を経るにつれてそんなことは嘘っぱち(笑)だなんてことが徐々にわかってきました。たとえば、子どもの貧困がいい例だと思います。多くはシングルマザーの家庭で、経済的に困窮していると日々の暮らしで精いっぱいで、子どもを大学に通わせることがなかなか難しいということです。大卒と高卒では生涯年収で4,000万円強の開きがあることから、結果として子どもの貧困が次世代に連鎖しやすいという問題点があります。

このような家庭で育った家庭の子どもが、私のようなアメリカ正規留学を志すとなると、並々ならぬ困難に直面すると思います。(もちろん、その方の能力次第で奨学金を得られるチャンスもありますので、必ずしも不可能ではありませんが。)

他の例としては、アメリカの文系phDに留学している方は、とても裕福な方のご子息が多く(アイビーリーグに行くと学費だけで500万円×5年=2,500万円、生活費込で3,000万円強は下りません)、一般家庭でとても手の出せる金額ではありませんが、彼らは親の財力故に働く必要もなく、学問的な真理の追求に集中できるのです。

一方、中流階級出身のいたって普通の学生がアメリカで文系の博士を大学卒業後すぐ志した場合、奨学金がもらえたとしても、文系で全額免除は稀ですから、費用面からまず無謀だと思います。ですから、裕福なご子息とは違い、まずは何年か働いて蓄えと経験を経た後で、アプライすることとなります。理系の場合であっても、トップ校ではない、地方州立大学の博士課程の場合、必ずしも全額奨学金をもらえるとは限らないため、やはり就業を経る等、金銭的な後ろ盾を獲得してからの留学が無難かなと思います。

以上、二つの例を挙げてきましたが、何を言いたかったのかというと、人は置かれた環境によってスタート地点は全く異なりますので、そのことを自覚した上で、自分の置かれた環境下でとりうるベストの選択をすべきということです。それができれば、(あいつはすごいのになんで自分はこうなのか…っていう)変に気負いすることもなく、生きていけるのではないでしょうか。
※私はこの事実に気づくのに丸々20年かかっちゃいました(笑) 



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